山村の自立を求めて | わくわく奥会津

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奥会津のあらまし

 

奥会津の地理

- 水との関わり -

奥会津は、福島県西南部、山々に囲まれ流れる只見川流域、伊南川流域に在する町村群、今では7町村にまたがる地域です。

もともと三島町大谷は、銀山街道に並ぶ集落の一つであり、只見川の支流大谷川沿いに位置し、この地理的条件が示す通り、中世末から近世にかけての300年ほどの間に、40回ほどの洪水・水害にあってきました。


豊富な清流も、時には水害となり、この地域に住む私たちの祖先に甚大な被害をもたらし、乗り越え続けてきたこともあり、先人たちより様々な伝承・信仰を今でも受け継ぎ続けています。


  • 文政の大洪水 水位墓標

  • 大谷大洪水絵図(一部)

奥会津地域(5町村)の五万人構想

- 採算合わずに消えた構想 -

ダム建設を核とした総合開発と五万人構想は、1960年のダム完成前に、早くもしぼんでいった。鉱山資源の輸入で地下資源の開発熱は冷め、ブナ林から砂糖を作る構想も採算が合わずにあえなく消えた。

ダム景気に沸いていた1958年、役場は住民の意識調査をしている。それによると、以外にも「家計が良くなった」のは23%に過ぎず、73%が生活様式の変化や物価の上昇で「苦しくなった」と答えている。ダム開発には、74%が「堅実性のない表面的な文化で、経済的にも将来性がない」と批判的だった。

確かにその後、これといった産業は育たず、田子倉ダム完成後、人口は減少に転じ、いまは開発時の半分以下だ。人口約6千人の南会津郡只見町の人々は戦後間もなく、「奥会津の山村に、五万人の都市が出現する」と、大きな夢を見せられていた。1949年(昭和24年)に町当局が、そうした未来像を描いていたことを町の資料が伝えている。当時、戦後復興のため、只見川総合開発計画が動き出し、ダムだけでなく電力開発(電源開発・送電計港湾)、地下資源開発(金・銀・銅・鉛・モリブデン・鉄鉱ダム建設とともに鉱工業や観光開発などを行ったアメリカのテネシーバレー開発(TVA)方式の日本版にと意気込み、地元は沸き返った。人口は増え始め、1950年には1万人を超えた

町によると、ダム建設で道路や鉄道建設が促進され、固定資産税で学校などの整備が急速に進んだ。

前只見町商工会長で田子倉集落の移転組合長だった皆川唯雄さん(77)は「生活が近代化し、建設業なども伸びた」とプラス面を挙げる。

一方、マイナス面は

①一連のダム建設で約200戸が水没し転出を余儀なくされた

②只見川の自然を失った

③国や県に頼る気持ちが強まった

などか指摘される。

田子倉出身の渡部完爾町長は「只見川が渓流のまま残っていれば、と思うこともある。ブナ林や山菜園に都会の人々を呼び込み、残った町民で新しい町づくりをしていきたい」と話した。ダムに振り回された町は、自然重視の方向に回帰しつつあるようにもみえる。

参考

「朝日新聞」平成7年1月5日) 『尾瀬と只見川電源開発』P428~430『尾瀬と只見川電源開発』P281


文学に見る奥会津

- 只見川電源開発 -

木下順二只見川電源地帯

木下順二、ルポルタージュ文学「只見川電源地帯―田子倉部落の場合」が、昭和27年11月「中央公論臨時増刊秋季文芸特集号」に発表された。(中略)総合開発とは、住民の生活を基礎にしての開発である筈だ。一部落の水没ということを感傷的に見ることはもちろん誤っている。

そして赤白の標識版は、相変わらず個人の感傷を絶する高さに小さく立っている。感傷とは全く別の基本的人権の問題として、只見川開発事業が全国的な関心を呼ぶと同じく、水没民の問題も全国的な関心のもとに注目されねばならない。何となれば、一局部に行われる不合理は必ず全部に拡がる可能性を持つものだからである。


小山いとこ『ダム・サイト』

昭和29年10月号の『中央公論』に発表され、文壇で華やかに論争された。


城山三郎『黄金郷』

昭和34年8月から『週刊東京』に連載され、12月に完結され、中央公論社から出版された作品である。

この『黄金郷』は明かにダムによって水没する田子倉が舞台である。


曽野綾子『無名碑』

昭和44年講談社から出版された。


山口弥一郎『小説只見川―郷愁への抵抗―』

昭和43年(1968)の創作。山口弥一郎は民俗学者で『湖底に沈む田子倉の記録』をまとめた。


三島由紀夫『沈める滝』

奥只見ダム建設を背景に描かれた。昭和30年1月から4回『中央公論』に連載され、5月単行本で出された。